無效であること、運用できること

「理解できてゐない」のが Sucky さんであれば、とするのであれば、どうして次は「N爺他のものが「理解できてゐない」といふ事であれば、」としないのでせう。

議論の順番や帝國憲法の解釋 - 鬱と躁の日々

御自分で「理解」した事について他人に「合意」を求める、のが自然な日本語だと思ひますが。N爺が、Sucky さんと異る「理解」をしてゐたのでは、Sucky さんの目的を逹してゐないでせうし。

「無效である」、「瑕疵がある」と云ふことが理解できてゐない状態で、その後の手段を議論することは何の意味も持たない。中の理解できてゐないの主語が何であるかを確認する場合、肝腎の述語を簡單に變換してしまふN爺さんの手法は、できるだけ筆者の言葉を活かす手法を採る私にとつて、とても奇妙に思へた。

私としては、「「無效である」、「瑕疵がある」と云ふこと(N爺さんらが)理解できてゐない状態で、」と云ふ氣持で書いてゐる。

議論の順番や帝國憲法の解釋 - 鬱と躁の日々

そのおつもりなら、「理解されてゐない状態で」とすべきでしたね。

修正したので、御意見があるならどうぞ。

さうですかねぇ。「もしも、現行憲法が無効だとして、その後どうするんですか」と問はれて「いや、それはまだ考へてません」と答へたのでは、やっぱり奇異の目で見られるやうな気がしますが。

現行憲法を無效でないと云ふ者が、もしも、現行憲法が無効だとして、と假定することに何の意味があるのか。「現行憲法は無效でない」と言ふならば、帝國憲法に戻す手段なんて聞いても無意味だ。手段があれば無效であることを認めるのであれば別だが、そんな馬鹿な話はあるまい。なほ、端から奇異の目で見られることが殆どなので、N爺さんの仰るやうなことで改めて私を奇異の目で見られても氣にならない。逆に、無駄なことをして何が樂しいのかと私が奇異の目で見るかもしれない。

現行憲法下において成立してゐる「消費税法」で例示する。この例で私がどう云ふことを言つてゐるのか判斷していたゞきたい。

  1. 現行憲法を無效にしたら、その下で成立した消費税法も無效となる。
  2. 消費税法が無效となつたならば、國は納められた消費税は返納せねばならない。(N爺さんの考はこゝら邊で停止してゐると思はれる)
  3. 一方、現行憲法が無效であるならば、現行憲法を適用していた期間は帝國憲法が有效となる。
  4. そこで帝國憲法下において、消費税法は成立し得たかを檢證する。
  5. 消費税法が成立し得たのならば、帝國憲法下の法律として消費税法は有效であつたとされる。
  6. 帝國憲法下の法律として消費税法が有效であつたのならば、その間の消費税は納められなければならない。

考方としてはこんな感じだが、このまゝ實行すれば「消費税」の處理が大變膨大で繁雜になるので、4番目をクリアしたのならば既納の消費税は帝國憲法下の消費税として納めたものと看做して處理を行ふ。これは瑕疵行爲があつた場合の行政處理を當嵌めただけである。

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「当て嵌めた」だけでも、結構大変みたいですよね。うまく当て嵌まってないみたいですし。(現行憲法とその下の法律がいつまで有効だったかについて、1. と3. の間に混乱がありますよね。)これを、全部の法律についてやりなおすんでせうか。ついつい、そんな事してまで、どうして帝國憲法からやりなおす必要があるんかな、って思ひます。

N爺さんが何が大變で、どう上手く當嵌つてゐないと言つてゐるのか解らない。現行憲法とその下の法律がいつまで有効だったかについて、1. と3. の間に混乱がありますよね。つて、何がどう混亂してゐると仰つてゐるだらう。全部の法律について帝國憲法と檢證するのは當り前のことで、そんな事してまで、どうして帝國憲法からやりなおす必要があるんかなとこゝで仰ることは、「過ちがあつても、面倒ならば放つておけばよい」と言ふに同じ。

成程、それはさうですね。しかし、Sucky さんのご主張の内で、共感を持てる部
分は、とにかく「國民の合意をとりつける」事を前提にしてゐるあたりなので、
それに目途が立ってないといふ事になると、ちょっとがっかりです。

御自身ががつかりしたことを私の所爲にされても、私にはどうすることもできない。

天皇に「誤り」を行はせたのならば、"国務大臣天皇を輔弼する責任"を果たせてゐないのだから、當然その國務大臣は責めを負はねばならない。

議論の順番や帝國憲法の解釋 - 鬱と躁の日々

国務大臣天皇を輔弼する責任が有りますが、それは、天皇に対して負ふのであって、それ以外の誰にも負はない。
また天皇は自分自身にしか責任を負はないし、誰からも責任を問はれないが、それは憲法下の臣民の誰からも、といふ事であって、革命政府、もしくは占領軍が責任を問ふ事を防ぐ事はできないだらう。

天皇に對して責任を負ふことが、延いては臣民に責任を負ふことになるのだから何の問題があらうか。後段については、帝國憲法の話をしてゐるのに帝國憲法外のことを言はれても困る。と言ふかN爺さんが革命や占領されることを平氣で容認してゐることに驚く。

さて、帝國憲法下の體制についてであるが、天皇の無問責は帝國憲法第3條により定められてをり、無問責であると云ふことは自づと責のある行動が執れないことを意味する。天皇が責のある行動を執つた瞬間、帝國憲法第3條に牴觸するからだ。

無效論とか帝國憲法など - 鬱と躁の日々

以下、無問責を無答責の事と取ります。第三条が天皇の無答責を定めてゐるとすれば、それに抵触するから、責を問はれる行動を執れない、といふのはをかしいでせう。そもそも責任を問はれる事はないのですから。

私の解釋が絶對に正しいと述べることに意味はないので――そもそも責任を問はれる事はないのだから、天皇は己の判斷で好き勝手に支配してよい――こんな解釋をしなければ問題はない。立法權は第5條により帝國議會の協贊が、行政權は第55條により國務大臣の輔弼と更に詔勅には副署が必要で、司法權は第57條により裁判所が行ふ。天皇は帝國議會、國務大臣、裁判所が無ければ何もできない。
ところで、「天皇は責を問はれない」と云ふ意味であるので「無答責」でいゝと思ふが、「無問責」と云ふ言葉は無いのだらうか。

國民が「決めて」天皇がそれを知らしめるのではなくて、國民の案を天皇が裁可する、すなはち、最終的な決定権は天皇にある、とすべきでせう。

では天皇は拒否權を行使したか――そんな事實はない。個人的には、拒否權そのものがなく、天皇におかれては國民の案を裁可することしかできないと思つてゐる。
なほ、憲法義解における第1條の解説中に、所謂「シラス」トハ即チ統治ノ義ニ外ナラスとある。「シラス」は「知らす」で「知る」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」。やはり天皇は「お知らせなさる」のである。

優れた判断・行動だったのは、昭和天皇個人が偶々優れた人物であつたからである。昭和天皇立憲君主である御自身のお立場をよく御理解されてゐたので、斯樣な判斷・行動をあの時代において2囘しかやらなかつた。だが昭和天皇にとつて、これら立憲君主の立場を超えた判斷・行動をやらねばならなかつたのは苦汁の決斷であつた。もしかしたら昭和天皇は、「2囘もやつてしまつた」と思はれてゐたのではないか――と私は感じる。なほ、優れた判断・行動は形として輔弼できたので、結果として帝國憲法違反にならなかつたにすぎない。

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もともと無答責なので、御自分の意思で行動した事が「憲法違反」にならない、と N爺は思ってゐますが、「形として輔弼できた」から、憲法違反にならなかった、の方は何とも理解しかねます。どういふ意味ですか、これ。

「終戰の詔書」を例にすれば――「終戰の詔書」を公布することに昭和天皇は強い意志を持つてゐたことは間違ひない。だが、「終戰の詔書」には國務大臣の副署がちやんとあるので、昭和天皇の意志がどうあるかを問ふ必要など無く、適法に處理されてゐる――と云ふこと。

最後の設問は、私が憲法違反を犯さなければ、君主、統治者としての存在理由を示す事ができないと思つてゐないので、お答へしかねる。

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それは、二・二六事件での行動や、終戦の御聖断が憲法違反ではなかったといふ事ですか。輔弼なしに自分の意思で行動したら、第三条に抵触するのではなかったのですか?

反論についての囘答は前段のとほり。
最初の設問に戻れば、私は「憲法違反を犯さなくても、天皇は君主、統治者としての存在理由がある。」と思つてゐるので、お答へしかねるとした。

逆に――現行憲法において象徴とされる天皇だが、一體何のために日本國や日本國民の統合の「象徴」が必要なのでせう。N爺さんのお考をお聽きしたい。

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質問の意味を解しかねますが、國民とか民主主義とかの「抽象的」な概念をより身近にするため、で答へになってゐるでせうか。

國民とか民主主義とかの「抽象的」な概念をより身近にするためにどうして「象徴」が必要なのか。又、何故「象徴」によつて國民とか民主主義とかの「抽象的」な概念より身近になるのか。

「戻す手段」や「改正案」は、私の案でなければならない――と思つてゐないことも語る必要性を感じない理由の一つ。私のやうな輩が一所懸命提案しても、遙かに偉い人の案が採用されるに決つてゐるのだ。

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了解。しかしさういふ事であれば、「瑕疵が有るので無効」の段階も現在の定説(遥かに偉い人の意見?)にまず当ってみるのが妥当な行き方ではないでせうか。

現行憲法が無效であるか否かは二者擇一だが、「戻す手段」や「改正案」は複數の選擇肢があり、その中の特定のものでなければならない――と思つてゐないから。



話の流れ上、帝國憲法は民主主義の憲法として運用できることを述べてゐるが、假に帝國憲法が惡法であつても、現行憲法が帝國憲法の改正であるかぎり、「現行憲法には成立の過程に瑕疵があり無效である」と言はざるを得ない。現行憲法が如何に優れた憲法であつた場合にあつても同じ。

帝國憲法が民主主義の憲法として運用できること、運用してゆくことが大切だと私は思ふ。なほ、私の帝國憲法の解釋は、帝國憲法が民主主義の憲法として運用できると云ふことを示す一つの解釋でしかない。自衞隊の存在の爲の日本國憲法第9條の解釋よりは遙かにましであると自負してはゐるが、私の解釋が民主主義の爲の唯一の解釋ではないことに注意されたい。