無意味なこと、混同してゐること、煽動してゐること

「無效である」、「瑕疵がある」と云ふことが理解できてゐない状態で、その後の手段を議論することは何の意味も持たない。中の理解できてゐないの主語が何であるかを確認する場合、肝腎の述語を簡單に變換してしまふN爺さんの手法は、できるだけ筆者の言葉を活かす手法を採る私にとつて、とても奇妙に思へた。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

さうですか。でも、主語を「確認」したのではなくて、意味が曖昧な文章の二つの解釈を並べたつもりですが。で、

御自分で「理解」した事について他人に「合意」を求める、のが自然な日本語だ と思ひますが。N爺が、Sucky さんと異る「理解」をしてゐたのでは、Sucky さん の目的を逹してゐないでせうし。

N爺の早とちり (その 4) - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ

では納得できる説明ではない、と?

私としては、最終的に「無效である」、「瑕疵がある」と云ふこと(N爺さんらが)理解できてゐない状態で、と云ふことが傳はつたのならばそれでよろしい。N爺さんが何のために意味が曖昧な文章の二つの解釈を並べたのか未だに解らないが、それを深く聞いても意味はない。

そのおつもりなら、「理解されてゐない状態で」とすべきでしたね。

N爺の早とちり (その 4) - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ

修正したので、御意見があるならどうぞ。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

どこを「修正」したのか解りませんが、さうですね、最初からさう書いて頂いてゐれば、N爺も「早とちり」しなかったと思ひますよ。でも、まあ、結論は変らなくて、そんな事を言ってゐたのでは、N爺他の「理解」は進まないでせう、ですね。

修正したものは、次のとほり。

私は、「現行憲法は無效である」、「現行憲法の成立の過程には瑕疵がある」ことを述べるに當つて、「無効だからこの先どうしよう」もしくは「瑕疵が有るが、これをどう正さう」を述べなければならぬ必要性があると思はない。これは單に順番の話で、「無效である」、「瑕疵がある」と云ふことが理解できてゐない理解されてゐない状態で、その後の手段を議論することは何の意味も持たない。しかしN爺さんは、それでは充分でないと仰り、無意味なことを聞きたがる。一體何故なのだらう。「『現行憲法は無效である』、『現行憲法の成立の過程には瑕疵がある』と云ふことを認める」とN爺さんが仰るのならば、さう云ふことを議論する意味が少しはあるかもしれない。

無效論とか帝國憲法など - 鬱と躁の日々

(文を)修正したので、(それに對してN爺さんの)御意見があるのならどうぞ――と言つてもN爺さんの結論は変らないのだから、N爺さんにとつて、これ以上私に意見を述べることに意味はないだらう。
N爺他の「理解」は進まないでせうと言ふのならば、それも仕方あるまい。皆が皆、私の言ふことを「理解」してくれるとも思つてゐない(理解されるに越したことはないが)。この議論で言へば、私はN爺さんの書かれてゐることに應へることで、自説の正當性を述べてゐる。それについて理解していたゞけるやう努力はするが、理解するかしないか――それは私にはどうすることもできないことだ。たゞ一つ、「他」の人がどうなるかなんて、N爺さんにも私にも誰にもわかりはしない――と云ふことは言へる。
なほ、N爺さんは私の「戻す手段」を聞きたがつてゐたが、(N爺さんがどう思はうと)結果として私は「戻す手段」を示さないと云ふことに變りはないので、それでいゝと思つてゐる。

現行憲法下において成立してゐる「消費税法」で例示する。この例で私がどう云ふことを言つてゐるのか判斷していたゞきたい。

  1. 現行憲法を無效にしたら、その下で成立した消費税法も無效となる。
  2. 消費税法が無效となつたならば、國は納められた消費税は返納せねばならない。(N爺さんの考はこゝら邊で停止してゐると思はれる)
  3. 一方、現行憲法が無效であるならば、現行憲法を適用していた期間は帝國憲法が有效となる。
  4. そこで帝國憲法下において、消費税法は成立し得たかを檢證する。
  5. 消費税法が成立し得たのならば、帝國憲法下の法律として消費税法は有效であつたとされる。
  6. 帝國憲法下の法律として消費税法が有效であつたのならば、その間の消費税は納められなければならない。

考方としてはこんな感じだが、このまゝ實行すれば「消費税」の處理が大變膨大で繁雜になるので、4番目をクリアしたのならば既納の消費税は帝國憲法下の消費税として納めたものと看做して處理を行ふ。これは瑕疵行爲があつた場合の行政處理を當嵌めただけである。

議論の順番や帝國憲法の解釋 - 鬱と躁の日々

1. で無効に「した」のなら、それまでは有効であった、といふ事でせう。しかるに 3. では、ずっと無効だった、と言ってゐる。1. の解釈に従ふならば、「帝國憲法と(ママ)検証」するのが当り前となるかも知れませんが、3. だと、無効な憲法の下で作られた法律なんだから即無効、とするのが一貫した姿勢だと思ひますが。(「誤りは誤り」ですよね。)

「無效」だから、當然、昭和22年5月3日に遡及する。「無效」であることを決定するのは今より後の日附だが。N爺さんにおかれては、「無效」と「廢止」を混同してゐるものと思はれる。
無効な憲法の下で作られた法律なんだから四番目の作業を要する。それをしなければ誤りは誤りのまゝ。

あと、「過ちがあったら面倒でも放っておいてはいけない」は至極正しい意見でせうが、それに「過ちの前まで戻さなければならない」と続くと、首を傾げたくなります。戻しやうのない過ち(殺人とか)も有りますし、無理に戻さうとしたら、もういっぺん過ちを犯さざるを得ない場合も有るでせう。
赤信号をみんなで渡らうとした時に、「赤信号だ、渡ってはいけない、戻らう」といふならともかく、渡り切ってから「赤信号だった、交通違反だ、すぐ元へ戻らう」といふのは、単に無益なだけ。しかも、Sucky さんは、赤信号で逆に渡れ、と言ってゐる訣で、不法で、何より大変危険です。
従って、こと憲法などといふ国民全体がかかはる論点について、「誤りは誤り」と言ひ切ってしまふ「啖呵」は、格好良いかも知れませんが、少々思慮が足りないと思へます。

帝國憲法は人や生き物でない以上、殺すことができないので、この譬を元に「現行憲法にしたことが戻しやうのない過ちである」と結論附けることはできない。もういっぺん過ちを犯さざるを得ない場合も有るとは具體的にどんな場合か。少なくとも、それを示さずして至極正しい意見は否定できるまい。至極正しい意見を「いゝ加減な意見」で潰すことができるとお考なら別だが。また、赤信號の話も、渡り切ってゐると判斷した基準が示されてゐないので、「現行憲法にしたことが戻しやうのない過ちである」と結論附けることができない。具體的にどう不法で、何より大変危険なのか示さずして、やはり至極正しい意見は否定できない。
なほ、私は――こと憲法などといふ国民全体がかかはる論点だからこそ正統性が必要である――と考へる。恰好良いとか良くないと云ふ感覺的なことで「法」を論ずるのは、少々思慮が足りないと思へます。

國民が「決めて」天皇がそれを知らしめるのではなくて、國民の案を天皇が裁可する、すなはち、最終的な決定権は天皇にある、とすべきでせう。

N爺の早とちり (その 4) - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ

では天皇は拒否權を行使したか――そんな事實はない。個人的には、拒否權そのものがなく、天皇におかれては國民の案を裁可することしかできないと思つてゐる。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

いえいえ、それは帝國憲法が絶対君主主義的であったにもかかはらず、天皇立憲君主であらうとしてゐた、といふ事に過ぎません。

天皇立憲君主であらうとしてゐたのならば、天皇におかれては、引續き立憲君主であらうとしていたゞけばよろしい。N爺さんの辯に由れば――天皇立憲君主であらうとすることができたのだから、帝國憲法には「天皇は絶體君主主義的でなければならない」と書かれてゐない――と云ふことが導出される。

なほ、憲法義解における第1條の解説中に、所謂「シラス」トハ即チ統治ノ義ニ外ナラスとある。「シラス」は「知らす」で「知る」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」。やはり天皇は「お知らせなさる」のである。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

いや、それは誤解だと思ひますね。「義解」の解説は、古来「治める」といふ意味で使はれてきた「知らす」が憲法の中の「統治ス」に当る、と言ってゐるだけでせう。あと、「知らす」は現代語だと「お知りになる」だと思ひますよ。

何故所謂「シラス」トハ即チ統治ノ義ニ外ナラスと言はねばならなかつたのか。「知らす」が憲法の中の「統治ス」に当る、と言ってゐるだけなら、(私が引用した部分の前に書かれてゐることも含めて)書く意味はない。私は「シラス」とはどう云ふ状態を指してゐるのかを考へ、その語源に由ることに書かれた意味を見出したわけだ。憲法義解に斯樣なことが書かれたのは何故なのか――N爺さんはどうお考なのだらう。
なほ、「知らす」は現代語だと「お知りになる」のであれば、帝國憲法第1條においては「天皇は萬世一系之をお知りになる」のであり、これでは「帝國憲法が絶體君主主義的である」とはとても言へない。

現行憲法が無效であるか否かは二者擇一だが、「戻す手段」や「改正案」は複數の選擇肢があり、その中の特定のものでなければならない――と思つてゐないから。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

うーむ、答へになってゐないやうに思へますが、選択肢が二つの場合は、定説に当ってみるまでもなく、ご自分で判断できる、といふ事でせうか。で、それが三つ以上になると、偉い人の意見を俟つのだ、と。
ともあれ、「無効であるか否か」については、Sucky さんは確信が有る訣ですね。で、「戻す手段」の前に、「無効である事態を是正するには、帝国憲法へ戻すしかない」のステップが有るやうに思へますが、それについては自明なのでせうか。

三つ以上になると、偉い人の意見を俟つのだと讀むとは、「早とちり」であると言はざるを得ない。(その中の特定のものでなければならない――と思つてゐないと書いてゐれば誰でも解つていたゞけると思つたのだが)三つ以上の内一つしか正しいものがないのならば、私はそれを推す。後段については、結論に至る過程上、「無效であるが、手段がない」と云ふ選擇肢も有り得ると私は考へてゐる。勿論私は「手段がない」とは思つてゐないが。

話の流れ上、帝國憲法は民主主義の憲法として運用できることを述べてゐるが、假に帝國憲法が惡法であつても、現行憲法が帝國憲法の改正であるかぎり、「現行憲法には成立の過程に瑕疵があり無效である」と言はざるを得ない。現行憲法が如何に優れた憲法であつた場合にあつても同じ。

無效であること、運用できること - 鬱と躁の日々

なる程。世の中が良くなるかどうかとか、憲法意識がどうとか、民主主義的であるべきかどうかとか、そのような事は全てどうでもよい事で、帝國憲法に照らして正当な改正であったかどうかだけが問題である、と。

  • 世の中が良くなるかどうかとか、憲法意識がどうとか、民主主義的であるべきかどうかとかが考慮されてをり、正當な改正である憲法
  • 世の中が良くなるかどうかとか、憲法意識がどうとか、民主主義的であるべきかどうかとかが考慮されてゐるが、不當な改正である憲法
  • 正當な改正であるが、世の中が良くなるかどうかとか、憲法意識がどうとか、民主主義的であるべきかどうかとかが考慮されてゐない憲法
  • 世の中が良くなるかどうかとか、憲法意識がどうとか、民主主義的であるべきかどうかとかが考慮されてをらず、不當な改正である憲法

上の四つの内、私は一つ目を推す。他の三つはどれも駄目。前に私は駄目なものの内の一つを示した。Suckyは駄目なものを一つしか示さなかつたから、他の駄目なものを認めてゐる――N爺さんにおかれては斯う云ふふうに理解するのが普通なのだらうか。