Re:またきた、女々しいSuckyさんへのご意見・ご感想

もう終つたと思つてゐたら續があつた。
七鍵さん、仔細を説明する時間は惜しむが、罵つたり罵るための「道具」を探したりする時間は惜しまない。


坐るヤンキー」を採上げてくれた御蔭で私と七鍵さんの違が解る。
私は自分のやつたことが正しい行爲ぢやないとは判つてゐる。「お前のやつてゐることは惡いことだ。」と言はれれば、私は認められる。だが七鍵さんは己の非を認めることは絶對にしないだらう。

  • 何も私は、自分の意見が正しいと考へてこちらに記事を書いてゐるのではありません。と書いた直後に私の意見だから言つてゐるのです。當然、自分では正しいと思つてゐることなのですが、と書いてゐる七鍵さん。どつちだ?
Re:Suckyさんへ(2)へのご意見・ご感想 - 鬱と躁の日々

これは、私が都合の良い箇處で私の發言を切つて紹介してゐる。さうだ。

「何も私は、自分の意見が正しいと考へてこちらに記事を書いてゐるのではありません。過去に何囘か明言してゐることですが、Suckyさんは讀まれてゐないでせうから改めていひますと、私は正しいことを言はうとしてゐるのではありません、私の意見だから言つてゐるのです。當然、自分では正しいと思つてゐることなのですが、それを他人が讀んで正しいと感じてくれやうなどとは思つてゐません。いや、そのやうな人がゐたら良いなとは思ふのですが、さう思はない人にまでさう感じさせようとは全く考へてゐません。」

いかがでせう、私の發言の途中で何故か切るのと、私の發言を全てを讀むのとでは、受ける印象が明らかに違ふ。それなのに、何故か、理由があつてSuckyさんは私の文章を中途半端に紹介してゐる。これは、私の發言を、私の意圖しない内容――Suckyさんの意圖する内容として喧傳したいか、Suckyさんが日本語の文章に對する讀解力がよつぽどないかの、どちらかである。たつたこれだけをみても、「何故言つてゐるのか」を讀み取らなければならない理由は明らかだらう。

リンクアンカーがあるのだから私が都合の良い箇所で發言を切つて引用してゐたとしても直ぐにばれる。そのうち「引用するなら記事を全て引用しろ!」と言出しさうだ。
七鍵さんは何故かを強調する割に、自分の記事を再掲載するだけで、どう受ける印象が明らかに違ふのか述べず、「何故言つてゐるのか」を讀み取らなければならないと命令し、その理由は明らかだと言ひながらどんな理由なのか具體的には何も書かない。自分の意圖を解らせようと云ふ努力はせず、「解れ!」と命令するのみである。

聲を掛けないことがいゝとは言はない。乘方が拙いこともある。さう云つたことに憤りを感じることもある。だが私は相手に事情があることも考へる。他人のことを考へず、自分の都合だけを考へてゐる生活は樂だらうなと思ふ。

やはり羨しい - 鬱と躁の日々

私の書いたこの文に對して、これこそどつちだよ。と言つてゐるが、何と何を對比してどつちと言つてゐるのだらう。
七鍵さん、私が何を言つてゐるのか解らなかつたやうだが、私も同感です。私もそのやうな生活ができるのであれば樂だらうなと思ひますよ、もちろん憤りを感じることもあります。なんてよく書けたものだ。前囘の記事の最後の段落をこの文に近い具體的な例として紹介する。

そもそもこれらのやり取りは、最初、Suckyさんの誤讀のトラックバックに始つたことである。誤讀を指摘したらかういつた話になつた、なりさうだつたから早々に話を切り上げやうとしてゐた、にも關らず、未だ粘着されてゐる。

七鍵さんが書いた記事に對し、私は誤讀によつて生れた感想を述べた七鍵さんから誤讀を指摘されたので、私は指摘に基づき改めて感想を述べた。すると七鍵さんは元記事に言及したことを書かなかつた
始りは七鍵さんが記事を發表したこと、そして話を逸したのは七鍵さん――かういつた話になつたのではなく、七鍵さんがさうしたのであり、なりさうだつたではなく、七鍵さんがさうしようとしたのだ。
逸した話がまた大意がどうかう等と云ふレヴェルではない穴だらけなもので、そんな話に私が納得したと思はれるのも心外だからをかしな點を指摘してゐる。それが粘着だと言ふのならさうなのでせう。尤も私は七鍵さんを否定するために一連の記事とは直接關係のない七鍵さんの記事を讀みにゆかうと云ふ氣にはならないが。


最初に書いたが、説明する時間を惜しみ、罵る時間は惜しまない――七鍵さんは自分がしてゐる行爲ををかしいとは思はないのか?説明をするのも阿呆らしいから説明しないのに罵倒はする。七鍵さんにとつて罵倒することは阿呆らしくないやうだ。
斯樣な指摘をされた人は大抵かう應へる――お前(Sucky)のレヴェルに合せたのだ――と。七鍵さんはどう應ずるのだらう。