相對主義は多數決絶對主義

「相對主義」とは何なのか」を公開した翌日に徳保さんから電子メールを戴いてゐる。徳保さんは誠實な人だ。それに比べて、そのメールに3箇月も經つて言及する私はなんて酷い人間なのだらう。


まず、私が説明しているのは、素朴な相対主義です。事実と価値観を大雑把に分けて、事実は共有できるが、その解釈(を導く価値観)は共有できない(場合がある)という考え方です。
人間が世界を認識する能力の制約などを理由に、「事実」など確定することは不可能である、として、何から何まで人と人が共有することはできない、という相対主義もありますが、哲学者以外にこの立場をとる人はいないので、私はこれを含めていません。

私は、徳保さんが書いた「memo:相対主義」を讀んで記事を書いたので、徳保さんが「相對主義」の中のどの派(?)であるかを述べられても、「さうですか」と言ふ以外にない。

物事は人の數だけ樣々な見方があり、それぞれの見方は侵してはならないとする主義

素朴な相対主義の中で、大きく意見の分かれるのが「侵してはならない」の部分でしょう。他者の価値観に干渉してはいけないなんてどうして断言できるのか、という立場と、実質的に様々な価値観を守るためには積極的な保護が必要である、という立場があるわけです。

「相對主義」の中では大きく違ふのでせうが、「侵していゝ」か「侵してはならない」かでは、どちらも「侵してはならない」だから同じこと。

現実問題としては、生命に関わる重大なテーマでは、多数派が賛同する人道主義的な立場が優先され、その他の切迫した生命存続の問題に直接関わらないテーマでは、それぞれの立場が守られる、といった折衷案に落ち着くようです。
純粋に考えれば、他者の価値観への干渉をダメという絶対的な理由はないわけです。とはいうものの。
ひとつの意見を勝者として、実質的に他の意見を黙らせるようなことが世の中には多いわけです。議論によってひとつの正しい結論が導かれるといえば聞こえはいいけれども、大抵の議論は多数決的に勝敗が決する現実があるので、全く少数意見の保護をしないという人は少ないですね。

「多數が少數を默らせる」のか「多數も少數を保護する」のかどちらだと言つてゐるのか解らない。取敢ず、現代日本に於て、多數が少數を默らせようとしてもそれはできない(ことになつてゐる)。
議論によってひとつの正しい結論が導かれるとは限らない。そして多數決で勝つた方が正しいとも限らない。また多數決の結果が永遠に續くこともない。

議論してゐる最中、互の議論の前提が違うため話が噛合はないことは屡々ある。ではその互の「前提」は果して正しいのか?「前提」自體に誤りはないのか?さう云ふ「前提」が論點になるのではなからうか?

争点が「事実」なら「正」「誤」は決しやすいでしょう。でも、個人の感性を問われるテーマでは、価値観の共有なしに「正」も「誤」も決めようがないはずです。
殺人の是非を考えるとしましょう。Aさんは「殺人は全てダメ」だという。Bさんは「じゃあ死刑は?」「正当防衛は?」と問う。Aさんが「死刑反対」「正当防衛も認めない」と答えたら、Bさんはもう説得は絶望的でしょう。
私は**の理由で死刑はありだと思う、正当防衛はやむをえないと思う、と説明することはできますが、Aさんが「殺人の禁止こそ絶対の正義だ、決して譲ることはできない」と言い張れば、どうにもなりません。
と、ここで、「まあ、そういう意見もあっていい」と思うのが相対主義のBさん。もしBさんも絶対主義なら、正当防衛の正しさを論理的に導く価値観を言語化して、Aさんと永久闘争をすることになります。

「事實」は「正」「誤」ではなく「有」「無」でせう。
「死刑」や「正當防衞」を例にあげてをられるが、殺人の是非も「感性」ですか?宗教的思想から殺人を犯しても、それはその人の感性だから認められるのでせうか?
抑も「議論」は誰かを説得するためのものではない。BさんがAさん個人を説得することに意義は無い。直接やり合つてゐるのが偶々AさんとBさんの2人であつて、單に意見と意見がぶつかり合つてゐるのが「議論」だ。
議論が永久に續くことを拙いとお考のやうだが、議論が永久に續くことの何が問題なのだらう。例の「死刑」は現實に議論され續けてゐる。今の日本では「死刑」が認められてゐるが、今後、死刑の存廢を――まあ、そういう意見もあっていいなどと言つてゐる場合ではなく――判斷しなければならない時が來るかもしれない。その判斷をする時、どちらに「論理的正しさ」があるかで決められるべきではないか。そのためには意見を鬪はせなくてはならない。それが「議論」だ。勿論多數が「正しい」を選ぶとは限らない。だからと言つて「『正しさ』が輕んじられていゝ」とはならない。

相対主義者にとって、議論はあまり意味がない。互いに相手を説得できないと考えているので、ならばせめて、お互いの考え方を理解して、衝突を避けて不利益が少ない形で住み分けをしようじゃないか、という話になっていく。
どうしてそういう相談が成り立つかというと、不利益を厭わず人と衝突したがる相対主義者は少なく、その点では価値観を共有できることが多いからです。

相對主義者同士はそれでいゝのでせう。だがさうでない人にその價値觀を押附けないでいたゞきたい。

議論してゐる者にとつて「相對主義」はあり得るのか?他人の主張に贊同しないのは贊同できない何らかの理由があるからであり、主張が理解できてゐるのならば抑も議論にならない。

仰るとおり、自分の意見が絶対に正しいとは思わないし、他人の意見もそうだと考える相対主義者は、基本的に議論をする意味がありません。
無謬の価値判断などありえないと最初から思っているわけですから。
でも実際には、相対主義の人でも議論をしています。それはなぜかといえば、現実に存在する不利益は解消したい、という点では、価値観を共有できることが多いからです。
そんな不利益放っておけ、という人とは議論しません。しても意味ない。だから、放っておけないという人同士で議論をする。
ただ、ここでも「他者の価値観への干渉」が問題になります。議論から除外した人にも協力してもらわないと問題が解決されない場合、がそれです。都合のいい話ですが、「他者の価値観への干渉が絶対にいけないという理由などない」とはいえるので、多数派を形成して少数派の自由を縛ることで対処するのが、困ったときの常道となっているようです。
しかしそうなると、相対主義でも絶対主義でも同じじゃないか、と。まあそこだけ見ればそうなんですが、「自分たちが絶対に正しいとはいえない」というのが大前提にある分、多数派による少数派の束縛が最小限となるはずです。絶対主義なら、間違いを許す理由はないので、苛烈な締め付けを自制する理屈がありません。
「現実に存在する不利益」といってもいろいろあって、ウェブの議論の少なからずは、「お互い、相手の考え方がわからないのは不安だよね」という「不利益」をテーマにしています。お互い、自分の説明を「理解」してほしいと思って、いろいろ説明する。
相対主義者同士の議論なら、お互いの結論が異なる理由を探求した結果、「***に対する価値判断が違うため」と判明したことで納得します。お互いに意見がよくわかり「不安がなくなった」ので目的は達しました、というわけ。

徳保さんは――「正しい」と云ふことは絶對的で普遍的なものである――とお考らしい。
相對主義者は物事を決める時に何を基準に判斷するのだらう?私は――後に間違つてゐたと判明することもあるが――自分が「正しい」と考へたことを選ぶのだが。
多数派を形成して少数派の自由を縛ることで対処するとは「數の論理」だ。相對主義者とはなんて恐ろしい存在なのだらう。
間違いを許す理由はないのは當然のことだ。間違つてゐるものを正しい方向に導くことに何の問題があると云ふのだ。苛烈な締め付けとは具體的にどんなことなのだ。多數で少數を縛ることと議論で正しさを述べ續けることとどちらが苛烈な締め付けか。
相對主義者同士では好きな方法で納得すればいゝ。だがさうでない人にその價値觀を押附けないでいたゞきたい。

相對主義者がAと云ふ説を唱へる。A説に對し私は「(理由を附して)A説は間違つてゐる。B説が正しい。」と異議を申立てる。すると相對主義者は「B説もありますが、私はA説です。」と言ふ。間違つてゐると言つてゐるにも拘らずA説を撤囘しない相對主義者に對し「ではあなたがA説を取り、B説を取らない理由は何か。」と私は尋ねる。この時相對主義者は何と答へるのだらう?

多分、その「間違っている」というのが、事実ではなく、事実の解釈なんでしょうね。だから「同意しない」といいつつ、B説も否定しない。

「同意しない」理由は何かと尋ねてゐるのだが。同意してゐなければ、その時點でB説を否定してゐるのだ。事實の解釋が違ふのならさう言へばいゝ。

私のいう素朴な相対主義は、文化相対主義として先進諸国に広まった考え方で、ブルカを被っている敬虔なイスラム教徒の女性を不幸だと決め付けていいのか、というような話なんです。
彼女たちに「自由」や「権利」が少ないことは事実で、今の自分が今日から同じ生活を強いられたら、それはたしかに不幸だ、と。でも、幸福なんてのは主観の問題だとすれば、そうした事実自体は彼女たちが不幸である証拠とはいえない、と反論できます。

私はイスラム教のことを知らないので、それについて直接的なことは書けない。
多分徳保さんは、「自由」や「權利」があることが當り前すぎて、「多い」「少い」と云ふ單なる事實にしか考へられないのだらう。「自由」や「權利」があることと幸不幸は全く關係がない。「自由」や「權利」があつたら必ず幸福になれるわけではない。關係のないことを竝べて反論できます。と言はれても困る。


徳保さんは、「絶對主義」と云ふ在りもしない假想敵を作り上げ、その「絶對主義」が間違つてゐる――と言ひ、だから「相對主義」は正しいと述べてゐるやうに思へる。


わざわざメールで答へてくださつたことを公開の場に出すべきかどうか惱んだが、元が公開されてゐるものであり、他の人の意見も聽けるかもしれないので、公開することにした。