價値相對主義は「押附」で終了

神崎智徳さんが『「相對主義」とは何なのか』という疑問を提示されていたので、私なりの回答をメールで送ったのは昨秋のこと。そのレスポンスが昨日あって……。

何を今更……とお怒りになるのは當然のこと。本當に申訣ない。

記事のタイトルに驚いた。なんで「相対主義=多数決絶対主義」などと解釈されるのか、何度か読んでみたけれど、よくわからなかった。なので、以下は「反論」ではなく、単に私の意見の「再論」です。

徳保さんの述べられてゐることの中で、非常に危ふいと感じたことを記事のタイトルにした。「再論」なので今囘の記事にもその點は變りなく書いていらつしやる。このことに關してはそこで書く。

神崎さんは物事は人の數だけ樣々な見方があり、それぞれの見方は侵してはならないとする主義を「相対主義」としているのだけれども、素朴な相対主義者の実感は「何が絶対に正しいかなんてわからない」だと思う。つまり、価値観闘争を「してはいけない」のではなくて、「やってもいいけど、決着は付かないと思うよ」という見方。
だから相対主義者は、議論が事実の争いから価値観闘争へ移行したら、「降りる」ことが多いと思う。

「相對主義」とは何なのか」で私が價値相對主義について最初に定義附したことだが、徳保さんが仰るやうに修正しませう。

  • 物事は人の數だけ樣々な見方があり、それぞれの見方については侵してもいゝが、侵してみても決着のつかないことだとする主義

相對主義者にとつて私が最初に定義附したことと徳保さんが今囘書いてゐることは大きな違なのでせう。だが「侵さない」ことに變りはない。價値觀鬪爭をやってもいいけど、決着は付かないと思うよの次には「だからやらない」と言ふ一文が省略されてゐると看做すのが妥當。さうでないと「けど」以降が意味を成さない。
議論から「降りる」のは勝手ですが、相手に「後脚で砂を掛けられた」と思はせないやうお氣を附けを。

ここからは入り組んだ話をするので、注意して読んでください。

理解できない私は注意力が足りないのだらう。

相対主義の見地からは価値観闘争に決着は付かないはずなんだけれども、実際にはそうならないことが少なくない。なぜならば、議論することによって、現実は影響を受けてしまうからです。とくに少数派は損をすることが多い。そのため、議論が結果的に少数派の沈黙を導くことがあります。

議論の多數派が少數派を虐めてもいゝ――と云ふ道理はない。少数派は損とは例へば、現實に少數派は村八分に遭ふなどの被害があると云ふことだらうか?それは村八分にする行爲を責めるべきで、議論によつて生じる「損」ではない。

絶対主義者より相対主義者に「他者の価値観に干渉すべからず」と考える人が多いとすれば、「絶対に正しい価値観」はなくとも、「絶対に議論に勝つ価値観」はある、という観察の結果かもしれません。結論を求める議論は最終的に少数意見を潰すので、議論を拒否して、価値観の並立状況を守ろうとするわけです。
注:私自身は「他者の価値観に干渉してはいけないなんて誰が決めたの?」という立場。内面不干渉を「絶対に正しい」と考えて凝り固まっている人に辟易させられることの方が多いから、緊急避難が必要な場面を「例外」として、「基本」は価値観闘争OKがよい、と思っています。

前段は徳保さんの主義とは違ふやうなので敢て觸れない。
決着は付かないと思う「基本」は価値観闘争OKがよいと云ふ意味が解らない。徳保さんの「素朴な相對主義」は何のために價値觀鬪爭をするのだらう。

自分の意見が絶対に正しいとは思わないし、他人の意見もそうだと考える相対主義者は、議論に冷淡でもよさそう。でも世の中を見ると、相対主義の人も議論をしています。それはなぜかといえば、現実に存在する不利益は解消したい、という点では、価値観を共有できることが多いからです。そこに議論の基盤がある。
「現実に存在する不利益」といってもいろいろあって、ウェブの議論の少なからずは、「お互い、相手の考え方がわからないのは不安だよね」という「不利益」をテーマにしています。だから、自分の説明を「理解」してほしいと思って、いろいろ説明する。
相対主義者同士の議論なら、お互いの結論が異なる理由を探求した結果、「***に対する価値判断が違うため」と判明すれば、それで納得します。お互いの事情と考え方を理解したら、後は「衝突を避けて不利益が少ない形で住み分けをしようじゃないか」という話になっていく。それ以上の説得は不可能だし、不要。

かう云ふ主張を讀んで私は徳保さんは――「正しい」と云ふことは絶對的で普遍的なものである――とお考らしい。とした。徳保さんは「絶對に」が「正しい」の枕詞だと思つてゐるやうだ。○○だから「正しい」と言へるのではないか?――議論での「正しい」はかう云ふものだらう。或は、この程度の「正しい」だからこそ議論によつて正否が判斷されるのだらう。不利益は解消したいなどと云ふのは議論になる理由の一つでしかないし、その程度のことに議論の本質はない。
相手の考え方がわからないのは不安なのはウェブに限つたことではない。いやウェブではない普段の生活で相手の考方が解らない方がもつと不安だ。ウェブでは他人に關はらなければ不安は生じないが、現實にはさうは行かないのだから。徳保さんは誰かに對して自分の説明を「理解」してほしいと思って、いろいろ説明するのか?誰かのためにウェブサイトを作つてゐるのか?
相對主義者同士は勝手にすればよろしい。たゞ最初から何も言はなければ何もせずに既に住み分けはできてゐる。議論なんて端からする必要はない。

もちろん、社会が何らかの価値判断を行う必要に迫られる場面はありますよね。価値観闘争を否定する人も「生命などに関わる重大なテーマでは、多数決の結果が個人の価値観に優先することを認めて、その他の切迫した生命存続の問題に直接関わらないテーマでは、それぞれの立場を守る」といった折衷案に落ち着くことが多いようです。
困ったときの多数決。多数決の正しさに保証はないが、多数派が「ここはもう多数決しかない」と考えれば、社会的には通用します。

こゝが徳保さんの主張の中で最も危險だと感じた部分。
重大なテーマだからこそ安易に多數決に頼らず議論を深めるべきであらう。多數決なんて集團の進む方向を決める手段の一つでしかなく、それも一時的なものでしかないのだが、困ったときの多数決とはまるで多數決が最終手段かのやう。多数派が「ここはもう多数決しかない」と考えれば、社会的には通用します。(強調:神崎)と多數決を行ふことを既に「數の論理」で決めてゐる。
己の主張は多數に左右されて決めてはならない。客觀的な「正しさ」によつて決めなければならない。己の主張が多數決に敗れ少數派となつたとしても、多數が間違つてゐるのならばそれを指摘し續ける――それが重要なんだ。だが徳保さんは多數決による結果しか見てゐない。社会的には通用すればそれで終り。だから「相對主義は多數決絶對主義」と云ふ見出にした。

相対主義は絶対主義を否定していない。否定する根拠がないから。「徹底した相対主義」は絶対主義を本当に否定するけれど、「素朴」な方は、「わからない」「判断保留」みたいな立場。

では「わからない」「判断保留」みたいな絶對主義を引合にして、「素朴な相對主義」を説明するのはお止めください。

あと、よく勘違いされるんだけど、相対主義者って、自分の意見は持っているんですよ。ただ、それが絶対に正しいという確信はない。確信はないんだけど、相手の方が正しいと納得できないのに、「向こうは確信を持っている!」なんて理由で相手の意見を受け入れられる? それはヘンでしょ。

相對主義者が意見を持つてゐないとは思つてゐない。自分の意見に絶対に正しいという確信はなくても、何故相手の方が正しいと納得できないのか、何故自分の意見は○○であるか――さう云ふことは言へるはずなのに言はない。それはヘンでしょ。

相対主義は、文化相対主義として浸透しています。「未開」の部族を不幸だと決め付けて西洋の価値観を押し付けることへの反省、みたいな。だから、相対主義のポイントは「押し付けの自粛」であって、自分の意見に自信がないから他人の押し付けをどんどん受け入れる、とはならないんですよ。

間違つてゐると思へば「正しい」ことを言ふ――たゞそれだけのことだ。こちらの「正しい」について、間違を指摘する機會は全く奪つてゐない。これは押附か?相對主義者について、他人の押し付けをどんどん受け入れるなんて言つてゐないのに、何故斯樣なことを書くのだらう。


改めて讀んで、徳保さん言つてゐることは、本當に「相對主義」だらうかと感じた。私は「相對主義」を知らない――知らないが「押附の自肅」をこんなに擴大解釋したものが本當の「相對主義」であるとは思へない。徳保さんの言ふ「相對主義」は便利な主義だ。「押附」と言へばそれで全て終る。