Re:観測所雑記帳 : 勝間和代とネガティブ・レビュー問題

私が先日書いた「不當な行爲を排除して何が惡い」で最初に「アンチ」を定義附けしたのは、その言葉の「意味」をバラバラに受取られると話が通じないから。


「アンチ」を定義するのはむずかしい。「不當な行爲を排除して何が惡い」では、「ある者に對して、不當な行爲をする者」と定義され、アンチは排除すべきだ、という論が展開されているが、これは「不當な行爲をする者は排除すべし」と言ってるのと同じことで、つまり「排除すべき者は排除すべし」という同語反復と変わらないような気がする。

當り前のことを當り前にするのは當り前のことだから。

「アンチ」とは「○○って知名度の割につまんなくね?」と思ってる人のことだと定義すればいいのではないか。で、要は単純に、勝間和代にはアンチが多いんだろう。それだけのことだ。

さう定義すると、正當に批判してゐる人も「アンチ」になつてしまふ。きちんとした根據があつて勝間さんの本が詰らないと言ふのならば、それは正當な批判でせう。勝間さんは斯樣な批判まで排除しろと言つてゐるだらうか。もしさうならば、勝間さんはアマゾンのレヴューのみに言及する必要はない。

アンチを排除せよというのは暴論で、アンチによる(あるいはシンパによる)迷惑行為を排除すればそれでじゅうぶんである。

「アンチ」の定義だけ自分のものに替へて、私の「アンチを排除せよ」を暴論だと言はれても困る。


おまけ

勝間さんは「著者の知名度が広がるにつれて、必ず『アンチ』が生まれます」と、書いている。これだと知名度と「アンチ」の数は単純に比例するかのようだが、実際にはぜんぜんそんなことないでしょう。

私は著者の知名度が広がるにつれて、必ず「アンチ」が生まれます。知名度と「アンチ」の数は単純に比例するとは讀まず、「その人自身が無名よりも有名な方が『アンチ』はゐる」と讀んだ。殘念ながらトッド・ラングレンを私は知らないが、東野 圭吾も無名時代より今の方が少いとてアンチはゐるだらうし、池上 彰も大塚 愛もイチローも無名な頃より今の方がアンチはゐるでせう(想像)。GIRL NEXT DOOR や ICONIQなんて、(芸能ニュースを讀むに)avexが賣らなければ(有名にしなければ)、アンチなんてできなかつたかもしれない。